一般人が自費で出版する本のことを古本業界では饅頭本と呼ぶ。昔の自費出版本は、葬式饅頭のように配られることが多かったことからついたらしい。なんらかの資料的価値がない限り古書店ではまず扱わない。*1
 昔立ち読みをして以来、どうしても忘れられない自費出版の本がある。書名も著者も憶えていないが、第二次大戦前の九州で水害に遭った資産家のごく短い手記だった。おそらく郷土史的な資料価値から棚に並んでいたものと思う。
 彼は水害で家屋を流され、同時に妻子の大半を失ったという。それから何年もかけて家財も取り戻し、新しい家族も得て、ようやく当時を振り返る精神的な余裕が出来て書くことができたということだった。
 水害の被害に遭った後、妻子のほとんどは遺体として発見された。しかし、末娘だけが行方不明のままだった。来る日も来る日も末娘を捜し求めた彼は、やがて娘の死をぼんやりと覚悟する。そして、二週間後に大八車に載せられた愛娘の遺体を発見する。
 くっきりと印象に残っているのは著者の反応で、ああよかった、と彼は安堵する。もうこれ以上冷たい水の中にさらすことなく、他の家族と同じように土に埋めてやれる、と。それから娘の体を抱き、家族を失ってから初めて号泣する。かなり前に読んだ本なので違う点もあるかもしれないが、家族の死にあたって最初にこみ上げるのが安堵の念、というのが妙に胸に迫った。
 ひどく雨が降っている時や、テレビでどこかの水害のニュースを見ていると、その本のことをふと思い出す。

*1:他にも百科事典や世界文学全集など、70〜80年代に訪問販売によるセット売りが流行った本を古書店に持ち込んでもほとんど徒労に終わる。